柳原白蓮
別府とえにし深き女流歌人
                   柳原 白蓮  (1885〜1967)
陽光があそび
真珠のようにたおやかに輝く海。
緑の山々のあわいをたゆとう湯けむり。
ビードロのおだやかな光。
三角帽のカフェ・ビリケン・・・。
 大正時代の別府は、異国情緒あふれる洒落た街並みでした。多くの文人墨客に愛され、特に流川あたりは、数々の文学作品のなかに描かれています。
 歌人・柳原白蓮もまた別府を愛したひとりでした。夫である筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門が、大正5年、流川通りに建てた「伊藤別荘」(後に赤銅御殿と呼ばれる)にたびたび訪れていたのです。
 伊藤別荘は、やがて文人グループのサロンとなり、竹久夢二や高浜虚子、九条武子らも訪れたということです。

■数奇な半生

われはここに神はいづくにましますや  星のまたたき寂しき夜なり

 柳原白蓮は、大正時代に生きた人々にとって、情熱とロマンの象徴だったようです。華族の生まれで、美貌の歌人として知られる白蓮は、生涯、文学の世界に自らの居場所を求め続け、波乱万丈の人生を送ったのです。
 16歳で親が取り決めた相手と結婚した白蓮は、一児をもうけながらも22歳で離婚し、母親の隠居所で読書にふけり古典に親しみました。
 24歳で女学校に入り佐々木信綱に師事。このころから本格的に短歌の創作に打ち込むようになります。
 27歳で、25歳年上の伊藤伝右衛門と二度目の結婚wしますが、10年間の結婚生活は経済的には恵まれたものでも、夫との仲は結婚当初から破綻しており、その満たされない心の空洞を埋めるように、ひたすら短歌の世界に没頭していきました。
 明治末から「心の花」に作品を発表し始めた白蓮は、大正4年に第一歌集「踏繪」を刊行し、歌の世界で頭角を現すようになります。大正8年には、詩集「几帳のかげ」と歌集「幻の華」を出版。「幻の華」の表紙は、当時交遊のあった竹久夢二が飾り、中には別府に寄せる歌も数多く載せられています。白蓮は自らの思いの丈を歌に託し、あでやかで情熱的な歌を次々と世に送り出していきました。
 やがて白蓮は、歌人として名を馳せ、その高貴さと華麗な生きざまにより、『筑紫の女王』と呼ばれるようになります。

■晩年は、平和運動に参加

今はただまことに人を恋そめぬ  甲斐なくたちし名の辛さより

36歳の時、7歳年下の東大法学部の学生、宮崎竜介の許に走った白蓮は、このいわゆる『白蓮事件』によりさまざまな中傷を受け、後に華族を除籍されるに至ります。しかし、竜介との間に二児をもうけ、81歳で竜介にみとられ没するまで、幸福に暮らしました。
 昭和21年、NHKに出演し、最愛の息子を戦争で亡くした悲しみを胸に平和を願う気持ちを語ったのがきっかけで、さまざまな活動に参加するようになり、悲母の会、国際悲母の会、世界連邦婦人部結成へと白蓮の平和活動は広がっていきました。
 しかしながら、その活動の中においても文学への情熱は衰えることなく、白蓮は本をひもとき、歌を詠む日々を送ります。そして四十余年にわたる竜介との生活の中で、竜介の生き方に共鳴しつつも、自らは終始文学の世界に行き続けたのでした。

柳原白蓮

■解体された別府「赤銅御殿」


 白蓮が竜介と初めて会ったのが「赤銅御殿」。大正9年のことで、「解放」に掲載されていた白蓮の戯曲「指蔓外道」の単行本化の打ち合わせのためでした。
 この後、この「赤銅御殿」は、幾度かの変遷を経て昭和54年に解体されましたが、5000坪の広大な庭に池をめぐらし、調度品は京都から取り寄せたもので、扉には著名な画伯の絵が施されるなど、贅をつくしたものでした。「赤銅御殿」は、あたりの景観とあいまってしっとりと美しく、白蓮は頻繁に別府を訪れていました。

わたつ海の沖に火もゆる火の国に  吾あり誰そや思われ人は
 現在、別府アリーナ南側の「赤銅御殿」跡には、この歌碑だけが残されています。昭和29年の歌碑除幕式に、『白蓮事件』後33年ぶりに別府を訪れた白蓮は、「そのころ泣いて暮らしたわたしが、今こうして迎えられる。有り難さはもったいないことです」と感慨をこめてしみじみと語ったといいます。       
そこひなき闇にかがやく星のごと   われの命をわがうちに見つ
 柳原白蓮は、稀有な運命に身をまかせながらも、晩年は平和運動に情熱を燃やし、歌人として誇り高く生きた女性だったのです。
幻の華白蓮は大正時代のもつ和と洋の融合した雰囲気を
ゴマとアーモンドで表現し、香ばしい味わいに仕上げました。
個性的でありながらどこか懐かしい・・・・
そんなご感想をお聞かせいただければ幸いでございます。
楽しいお茶のひとときにぜひ一度ご賞味下さいませ。

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別府市菓子組合の共同開発銘菓・幻の華白蓮
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